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世界の恋の数は一定

All about people, animals and stars.

大事なことはなんなのか、ってこと

 わたしのこれまでの人生、うまくいったこともあったし、そうでないことも、もちろんたくさんあるのだけど、うーん、まぁぼちぼちですよね、たぶん。いや、人から見たら大失敗じゃん、大不幸じゃん、ってこともあるかもしれないけど、まぁ自分としては、けっこう良いじゃん、と思ってて。
 それは運もあったし、生まれもとりあえずは恵まれていたと思うし、自分のしたなにかしらの賜物もあったかもしれない。何によって今こういう気持ちになっているのかって、その遠因はわからないものだ。なんというか、今更どうこう嘆いてもしかたないことが多すぎるので。
 幸せであるには、「いま、ここ」をとにかく充実させることに集中することでしかないと思う。あとは、自分にコントロールできないことに手を出したり、ヤキモキしたりしないこと。情報を得て判断することは大事だと思うし、自分の目に入ってきたうちの多くはどこかで何かしらの形で自分に降りかかってくることなのだと思うけど、とにかく、「いま、ここ」。
 大事なことはなんなのかってこと。どんなに関係ないことに思えても、どこかしら縁があって目に飛び込んで来ている限り、人生に何かの影響はあるかもしれない。今すぐにでなくても近からぬ未来にでも。しかし「いま、ここ」にコントロール不能で、将来においても影響のないことははっきり見切るべきだって思う。
 政治や経済について憂いたりしても、自分にはほとんどのことはコントロール不能だと思う。情報としていろんなことを知ることはもちろん大事だし、それは例えば選挙という形だったり、ぼくの世代には縁遠いけれどデモだったり、何かしらの行動には繋がるかもしれない。それは世論の一部、社会の空気の一部ではあると思う。情報を正しく読みとって、判断することが大事なのだと思う。
 いかがわしい情報を見抜くためには違和感を感じることが大事だと思うし、そういう方法論があるのだと思う。騙す人がしがちなことってあると思うから。ネットの広告モデルでは、脅かす人ってのは定期的に必然的に現れてくる。いろんな人がこの世にはいて、それぞれに思惑がある。自分の思い通りの社会に向けて他人を動かそうという人は多いし、そこにはカネもヒトノイノチも関わってくる。一人の人にできることは限られているけれど、声の大きい人というのはいる。
 しかし政治や経済を憂いても、わたしという一般人にはコントロールする力はたぶん微々たるものだ。だから諦めるんじゃなくて、情報を集めて、判断して、処理する。その繰り返しだと思う。
 わたしの行動が、この社会に影響することなんて、本当に微々たるものだ。社会の空気みたいなものを作る一部でしかない。なにが最善であるのかを、すべての情報を持って折伏するわけじゃない。人にはそれぞれの思惑があって、きっとこの世界はどこかへ行くのだろう。隠されたものはきっとずっと隠されたままに。良い方へ行くはずだと信じるしかないし、コントロールできることをコントロールしていくだけだと思う。
 コントロール不能なことに執着しても、良いことはたぶんない。できないことに執着するのって、なんらかの不満や不安のはけ口となっているだけなのかもしれないって思う。執着することで、現実の「いま、ここ」から目をそらしてるんじゃないの。
 大事なことはなんなのか、ってこと。
 たぶん、わたしのことを人に紹介するのに、いろんな言い方ができると思う。「めちゃくちゃ幸福な人です」みたいな言い方もできるかもしれないし、(自分で言うのもなんだけど)「めちゃくちゃ不幸な人です」とも言えると思う。生まれて来たことがそもそも幸福で、しかも生まれて来たことが圧倒的に不幸なことだ、ということはあるのだと思う。大局的に見れば、人はどっちも持っているんじゃないだろうか。「人生はクローズアップで見れば悲劇で、ロングショットで見れば喜劇だ」とチャップリンは言ったそうだけど、そういう見方だってあるのだと思う。
 今がつらくても、いつまでも続くってわけでもないはず。抜け出すための何かは絶対に必要だけれど。人が不幸なのだとしたら、そこから抜け出そうとしないことだと思う。自死は抜け出すことには決してならなくて、人間を降りること。なにかしなくては、なにも始まらない。できることからしていくべきだと思う。
 基本的に後悔って、わたしはあんまりない。仕方ないと思うことはあるけれど。それなりにやってきたと思う。あれが精一杯だったかと言われるとわからないけれど、でも、それなりに。伸び代がまだ自分にあるとしたら、その精一杯さ、のところなのだと思う。必死さ、なのだと思う。一流、超一流との差はそこにあるのだと勝手に思っている。そこにはコントロールできないことの切り捨て方、見切り方も見え隠れする。集中の深さはそこから生まれてくるのではないか。良い意味で執着したいのだ。
 大事なことは、なんなのかってこと。人には、コントロールできる事、できない事とあると思う。それは人によって違うし、時期によっても違うし、気分や体調によっても違うかもしれない。その見極めが大事だ。コントロールできないことに執着してしまうのは人生の無駄だと思う。さっと判断して、自分にできることを地道にし続けることでしか、人生は拓けない。人生一発逆転なんてそうそうないし当てにはならない。何かに文句を言っているだけでは何も解決しない。不満を撒き散らすことは自分を焼く。自分を好きでなくなる行動だと思う。そうする前にするべきことがあるはずだ。具体的な行動や解決策だけが不満を解消する。しかし一人の人間にできることは限られている。それは、一国の首相であっても。
 わたしは、人の力を借りるのが下手くそだ、という自覚がある。だから自分で考えてきたんだと思うけれど、それにも限度がある。自分と自分の身近の範囲内だけで生きるのであればそれで事足りるかもしれない。だけど社会にとって価値のある何かを生み出そうとか、社会の中で生きるとかいうことを考え出すと、途端に露頭に迷ってしまう。しかし人間一人にできることなんて、たかが知れてると思う。
 人の力を借りるのが難しいと思うのは、人をコントロールすることを困難だと思っているからだと思う。把握してるつもりで把握していない。そうして判断をいつも誤っていたような気がする。他人はコントロールの範囲外だと決めてしまえばこんなに簡単なことはない。だけど、それはとても狭い世界を生きるということだ。把握していることだけが世界ではないし、把握していることだって確かなことなんてないのだと思う。判断を間違うのは、経験が乏しいのかバカなのか。考えがいつも足りず、そして劣っている。人をコントロールできるか否かを、いつも不審に思ってる気がする。何か、不遜な感じがするし、かといって、そうしないわけにもいかないというか。難しいよね。自分の中に着地点が見つかっていない。そもそも人の力を借りる事と人をコントロールする事は、違う事なのかもしれない。
 自分のことを、恵まれてるって思うよ。だけど(自分で言うのもなんなんですが)はっきりと不幸だとも思う。幸福を安易に享受しすぎているし、不幸を簡単に被りすぎている。わたしは足掻いているだろうか。わたしは幸福でもあり、不幸でもあると思う。動き続けることで、なにかが変わってく。どんな行動をするかが常に肝要だし、その判断を間違えれば、いつだって幸福は遠ざかり、不幸は色濃くなる。
 「いま、ここ」の心地よさを拠りどころに、わたしは生きている。大事なのは、きっと今の生活だし、ちょっと先の未来だし、過去のことはそんなに振り返らず、やるべきことをやりつづけることだ。強いていうなら日々の成長である。人の心地よさって、きっとそこにあるんだと思う。
 それぞれが、なにが大事なのかっていつも頭の片隅に置いて、考えつづけ、行動しつづけるしかないって思う。
 今のわたしの直近の大事なことは、如何にして価値のあるものを生み出すか、だ。そのことにわたしの全てを注ぎ込む。