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世界の恋の数は一定

All about people, animals and stars.

自分を好きであるという幸福

 今日はここ最近思ってることの話です。
 けっこう、自分のことを好きになりつつある、というか、自分のことを好きであることを認識し始めていると思う。それなりに充実した日々を送っているし、楽しい毎日である。価値のあるものを生み出せてるかというと疑問ではあるけれど、そこに向かってるかもしれない──遅々とだけど──という感覚は自分の中にあると思う。どうやったら価値のあるものを生み出せるのだろうかというのが、ここ最近の自分にとっての高邁な課題であり、話題だと思う。
 そのためには、自分にとってなにが価値があるのかを知ることが大事なのではないかと思っている。それを探るうちに、けっこう、いや、今まで自分に対して思っていたよりは、自分のことを好きなのだと思えるようになったのだと思う。ただその言い方はたぶん適切ではなくて、もともと好きだったものをそうだと認識し始めているということなのだと思う。それはナルシスト的にではなくて、なんというか、つまるところ、「生の悦び」なのではないか。自分にとって価値のあることを把握することは、楽しいことでもあり、自分を好きになっていく、あるいはそれを認識するきっかけにもなる。それは生きる悦びであると思う。
 わたしにとっては、それなりにつらい日々もあったのだけど、自死することを考えたことは一度もなかったと思う。それは、遺書を書くという困難さがあるからだと、どこかに書いた。つまり、納得のいく遺書を書ける気がしないから、死ぬことなんて頭に浮かびさえしなかった、というか除けていたのだと思う。
 翻って、なぜ生きているのかというと、たぶん、生かされたからだと思う。それだけなのだと思う。そうして、わたしは生きている、生かされている。わたしにどんな能力があるかなんてわからないのだけど、ただ、生きていることが、いまは楽しいのだ。
 自分にはなにかの価値を生み出す能力があるだろうと思っている。あるはずだ、と思っている。なんの根拠もなく思っている。生を与えられたのだから、何かあるのだろうと。わたしは生きている。生きて、様々なことができるはず。
 いろんなことを意図してやりたいという通念が自分の中に芽生えつつある。因果関係などと大げさなことを言いたいのではなくて、すべての動作、すべての行動に意図があるべきだと窮屈なことを考え始めている。それはとても堅苦しくて、とても疲れそうなことなのだけど、それはそれで良いと思っている。その道を突き詰めたいと思ってる。
 そう思った矢先に読んだ本に「時間は動作の影である」という言葉があった。意図して何かをする、ということの影には「効率」という言葉がちらついている。例えば、起床してからやる事というのがいくつかルーティンとしてあるのだけど、その毎日やることにだって効率は隠れているし、なにかしらの意図を忍ばせることはできるのだと思う。コーヒーの湯を沸かしてる間に歯を磨く、その意図や手さばきの手順、みたいなことです。
 そういう工夫みたいなことを考えている時に、けっこう、「生きてる感」があるのだ、わたしにとっては。その多くは妄想である。あれをする時こういう手順でやると効率がいいはずだ、といったような。そういう試行錯誤が楽しいのだ。
 そういう試行錯誤の工夫をすることを、人に役立てられたら良いのに、と思ったりする。きっと、きっとだけど、「働く」とはそういう工夫によって発展していくものなのではないか、と思う。そういう類の価値もあるのだと思う。
 一方、ここ最近でいうと、会話を考えるのがとても楽しい。時間がいくらあっても足りず、妄想はつぎつぎと膨らむ。会話──なにげないはなし──を考えるのが楽しい。何のコンセプトもなくただ漠然と考えているだけなのだけど、何か設定したり工夫したら、もっと楽しいかもしれないと思う。枠はいつだって大事だと思う。今のところ、恋人同士の会話の妄想が多い。それが一番「いこる」のである。つまりは燃えるのである。しかし、今のところその妄想には人を喜ばせるような価値はないように思う。
 「価値のあるもの」とは何なのだろう。今のところ、わたしには価値のあるものを作り出せているとは言えそうにない。というか評価の矢面にさえ立っていない。
 それは自信がないからかもしれないし、「価値」というものをそもそもわかっていないのかもしれない。それなのになにげに表現を出してしまっている。よく考えもせず、ただ、自分の快楽に従って出してしまっている。表現することは、快楽なのだと思う。生きてる感じがすごくする。その突き詰め方に問題があるのだと思う。問題のあるものを出してしまうことは危ういことだ。快楽に溺れている。
 わたしは、もっと自分を高めることができるはずだ、と思う。「価値のあるもの」を生み出せるはずだ、と思っている。なぜだかわからないけれど、そう信じているのである。なんの根拠もないけれど、そう、信じている。それこそが、わたくしがわたくしを好きであるという要因であるような気がするし、これから先の未来に、なんの根拠もなく、期待している自分がいる。きっと落とし穴はたくさんあるのだろう。困難は尽きないだろう。しかし、自分を好きであることを失わなければ、きっとわたしは生きていられる、と思う。それも理不尽に幸せに。
 幸せであるためには、ある種の鈍感さが必要であるとわたしは思う。わたしがなんの根拠もなく思っていることは、わたし自身を強めると思う。わたしはより一層タフにならなくてはならないと思う。自分に対しても、人との付き合いに於いても。
 人生のいかなる局面においても、頼りになるのは自分だけである。他人に寄りかかった瞬間に、地獄が口を開けて待っている。いま、わたしは地獄の淵にいると思う。寄りかかりすぎだ、と思うのである。依存しすぎなのだ。わたしはいろんな意味でもっとタフにならないといけない。自分のために努力できるのは、自分だけであると思う。人のために努力する人もあるが、それはひいては自分のためだと思う。
 「幸せであること」が人生の大前提だと思う。その由来は自分を好きであることだと思う。最期だけを幸せに終わるだとか、最期が良ければいいというのではなく、幸せをいつだって追いかけ続けること。自分を好きであり続けること。そうありたい。
 だから自分を律し続ける。ネガティブな表現をなるべくしない。自分を好きでなくなることは決してしない。そして自分の目を曇らせるものを近くに置かないように心がける。
 世の中には、あるいはネットには、あらゆる「ヘイト」が蔓延っている。そういうものへの対処を知っているかどうかだと思う。そういうものに接した時に、どう考えるか、どう思うのか、ということだと思う。あらゆる「ヘイト」を避けて生きることはできない。世俗に生きればそれはどこにだってある。それに対処するためにいろんな方法があるはずだ。時にはうまく自分を言いくるめることだって必要なのかもしれない。「この人はこういうことを言わなければ気の済まない何かを持ってしまっている人なのだ」などなど。
 わたしは「困ること」を無意識に避けているのかもしれない。困らない方が良いという発想は、今ある問題を先送りにしているだけなんじゃないのか。「困る」から「解決」しようとするのではないか。工夫するのではないか。積極果敢に「出て」みることも大事かもしれないと思う。これはいろんなことに対して言えることだと思われる。
 わたしはいろんなことの総体として、自分を好きでいられているのだ、と思う。なにを以って自分のことを思っていられるのか、ということがとても大事で、その大事なものを失うことがわたしは怖いのだ。なにがキーだったのだろうということを考えることは、なにが自分にとって価値のあることなのだろうと考える事と似ていると思う。
 自分を好きだ、ということは、自分に何かを込め続けている、ということに由来するのかもしれないと思う。
 妄想がこうして形になっていく喜び。書くことはとても楽しいことだ。この、楽しいということが人に伝わるということが、わたしの存外の喜びである。