読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

世界の恋の数は一定

All about people, animals and stars.

筆談AVのことを知って思うこと

 筆談AVというものが在る。出てくる女性が筆談でコミュニケーションするAVであるらしい。わたしはこのAVの本編を見たわけじゃないし、見るつもりもない。つらくて見られないと思う。だからこのAVについて語る資格はないかもしれない。そもそもAVについて詳しくもない。AVについて語るということは自分の性癖とか、何か柔らかいところに触れないといけないことだと思う。そういうことに慣れていないし、積極的にそうしたいとも思わない。何かのレビューのようなものを書こうという気もない。
 ただ一人の緘黙者(の男)として、そういうアダルトヴィデオが存在しているということを、傍観者として思うところはある。
 別にセックスにおいて声を出すことの是非について何か言いたいわけではないし、人の性癖についても他人に迷惑をかけないなら全く興味はない。
 ただ緘黙者がそうでない人と社会の中でどう関わっていくのか、ということには少し興味がある。セックスは人間関係としては特殊というか、ある種振り切っていると思う。特にAVに出演するということになると。ただ自分にはAVに出たい人の気持ちはわからないし、出ることがどういうことなのかも考えない。そもそもこのAVがどこまで演出なのかはわからないことだ。出ている女性は人妻という触れ込みで、しゃべることができない、らしい。ヴィデオの中でのコミュニケーションは筆談をしているようだ。ただそういうAVが在る、ということだ。ということは少なくともそれに関わっている人たちはそこに需要がある、かもしれない、と思ったのだろうと思う。明け透けに言えば興奮する人がいるかもしれない、と。
 これがどんどんエスカレートしていって、AVという幻想を飛び越えて、女性を従わせたい男によって都合よく緘黙の女性が扱われるようなことが起きてしまったらつらいな、とは思う。拒否したり抵抗することは可能かもしれないが、しゃべることで何かを伝えることはできないのだ。SMなどで使われる猿轡にはもしかしたらそういう意図があるのかもしれない(よくわからないで言ってます)。
 おそらく作っている方々もこれは和姦でないと成立しないと思ったのかもしれない(少なくともわたしの見た範囲では和姦に見えた)。だけど人間の欲望はそんなことは簡単に飛び越えてしまうだろうということは想像できてしまう。この種のAVがもし売れたらエスカレートしたものが発売されるかもしれない。しゃべれない人間を征服することは興奮することだ、というようなことが一般的になってしまったら、少し怖い。AVによってどれだけの人にどういう影響が出るのかはわたしにはわからない。全然そんなものないのかもしれない。ただ、緘黙の人が、そうであるというだけで、生きにくい社会になってしまうのなら、嫌だなと思う。ちょっと極端な思考だけど。
 ただでさえ障害は不便である。それはわたしも実感している。何が起きたというわけでもないのに人間不信のようになってしまってるかもしれない(少なくともわたしは)。人間関係の構築はとりわけ難しい。社会の中で生きることは困難かもしれない。しかしだからといって障害によって不当に扱われる筋合いは全然ない。障害者だって人間なのだ。社会の中で、健やかに生きていたい。
 こういうAVが在ることで良いこともあるのかもしれない。緘黙について考える人がいるかもしれない。AVを見て真面目に何か思考しようとか何かを見出そうという人がそんなに多くいるとは全く思えないけれど。
 もしわたしがジャーナリストだったら、このヴィデオを作った人や出演した人に個人的に取材したりしたかもしれない。しかしそんなノウハウも資金もない。かといってこれについての何かを読みたいともあまり思わない。わたしは言いたいことが言えればいいのだと思う。ただ個人的に興味があるというだけである。社会にとっての意義とか危惧とか、そういうことではないかもしれない。この文章は幾分イキすぎた妄想に過ぎない。何かが在る時に起こりそうなことを想像するのが好きなだけなのだ。そして書くことで考えているのだ。
 もしこれ以上このことについて考えていたら、この女性にシンパシーを感じてしまうかもしれない。というか感じつつある。彼女は緘黙(ということになっている)で、そして社会の中で人と関わろうとしている。それは、少なくともわたしにとっては難しいことかもしれない。彼女のその方法の精神性について何か言う気はわたしには全くない。好きにすれば良いと思う。わたしは出演者や作った人を殊更に褒め称えたいわけでもないし、腐したいわけでもない。彼女がAVに出ているということ如何ではなく、そもそもわたしは同じ障害の人間同士で慰めあったり、傷を舐め合うことに敏感である。なるべくそうしたくないと思っている。そうすることで寛解するのならそうするけれど。深入りはしたくない。彼女は人前に出る仕事をしている。魅力的なのかもしれない(わたしには正直わからない)。しかし、しゃべれないということを障害とし、それに対する態度・生き方によってシンパシーを感じてしまうのは違うと思う。複雑なところだけど。障害なんてもろともせず、一人の人間として存在することが、わたしの理想なのだと思う。それが困難なこともわかっている。ただ言えることは同情や哀れみは屈辱である、わたしにとっては、ということだ*1
 どのようにこの社会の中で振る舞うか、どのように生きていくかを考え、そして懸命に実行することはとても有意義なことだと思う。それはわたしが障害を持っているから、というわけではなく。
 人になんと言われようが、わたしはどうしたって生きる。なるべくなら、健やかに幸せに生きたいって思う。わたしはまだまだ足掻いてく。

*1:屈辱だ、というのは大げさだったかもしれない。そこまで強い感情は起こらないかもしれない。ただそう言う表現をする人とは関わらないようにしようとは思うと思う。そういう表現をする人には今の所直接に会ったことはない。愛は地球を救う番組には正直、虫唾が走ってしまうし、なんかそういうことを暗に言いたかったのだと思う