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世界の恋の数は一定

All about people, animals and stars.

ぼくのすうぃんぐたれながし

 今日は自分の感じてる音楽について書きたいと思う。それは自分の価値観の表明でもあると思う。
 まず、自分の中の価値観として、かっこつけないのがかっこいいということがあると思う。それは、自分の中のいろいろなところに表出していて、自分の欠点もかっこ悪いところも自発的に言ってしまうし言いたいし、それは、かっこつけないことがかっこいいという価値観があるからだと思う。さらけ出してこそ、と思ってる。どこか崩れた人間の美学というのがあるのかもしれない。かっこいいだけが人間ではないし、情けないところかっこ悪いところも含めて人間なのだ、それこそが美しい、という美意識が自分の中にあるのかもしれない。かっこつけてるかっこよさに辟易してるというか。
 もちろんかっこいいエンターテイメントも好きだし、かっこいいことも好きかもしれない。だけど、人間はそれだけでは不自然だ、と思ってしまう。かっこいいという夢を見させるのが、大衆娯楽に必要なのはわかる。とてもわかる。そういうもんだと思う。
 ジャズマンはしかし、かっこつけない。汚い格好で髪もぼさぼさでヨダレ垂らしながら演奏する人もいる。そこにはエンターテイメントとか商業主義とか大衆娯楽ではできない、ある種のかっこ悪さがあると思う。でも、少なくとも私にとって、その人たちの奏でる音楽は本当に素晴らしいものだ。それだけで十分なのだ、音楽にとっては。奏でられている音楽が、音楽のすべてなのだと思う。音楽にかっこよさは本当に必要なのだろうか。
 彼らはミスをしない。それは演奏技術が長けているからではなくて、ミスも演奏のうち、ミスをミスにしない、ということなのだと思う。かっこつけてる人のミスはイタい。それが致命的になりうることもあるかもしれない。
 音楽を音楽たらしめているのはいつも「歌」なのだと思う。ここでいう「歌」は発声することだけを意味しない。自分の好きな楽器を用いて歌うということ。そこにあるすべての音は、素晴らしい「歌」のためにあるのだ。音楽はメロディであり、ハーモニーであり、リズムである。「歌」はそれらによって成り立っている。
 ジャズの肝は歌っている、ということだと思う。かっこつけることは決して中心にない。かっこつけるのが好きなジャズマンももちろんいるし、いろんな嗜好の人がジャズマンの中にもいると思う。即興で演奏するという性質上その音楽家の嗜好はとてもよくその音楽に反映される。即興で、スウィングに乗せて歌う、それがジャズの醍醐味なのだと思う。ジャズの中ではドラムでさえ歌っていて、バックビートは存在しない。いつだって何かが起きていて、安定という言葉は当てはまらない。その歌を聴いている間は気を抜けず、抜かず、ただただ音楽を楽しんでいる。いま何が起きているか、それだけが楽しみでならない。
 かっこいいエンターテイメントだけが音楽ではないのだ。メディアには全く出ず、そして見た目にはかっこ悪い、そしてその音楽は素晴らしい、という人たちがいる。かっこいい、派手だ、目立つ、そういうものに惹かれるのは当たり前だと思う。しかしエンターテイメント性だけしか知らずに、音楽を聴くのはなんだかもったいないと思う。かっこいいのが全てではない。余計なお世話だろうか。世の中にはたくさんの、素晴らしい音楽がある。わたしは音楽が好きだ。ジャズが好きだ。かっこつけない裏にかっこよさがあるのだ。かっこつけないから、かっこいいのだ。わたしはキメキメも好きだけれど、そういう価値観もあるのです。
 わたしはときどき、文章を書く。作文と音楽はどこか似ているところがあると思う。わたしの文章に、わたしの「歌」はあるだろうか。自問してやまない。