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世界の恋の数は一定

All about people, animals and stars.

人と関わること

自問字答

 書店でバイトしていた時、初めて働くことでというか、もっというと人に何かすることで、褒められたような気がする。だから、今でもわたしは書店で働くことに執着してしまうのかもしれない。
 両親はわたしを徹底して褒めない人だったし、学校生活でも褒められる機会ってそんなになかったと思う。友達として認められるとかそういうことはあったとしても、なんだかそれはとても空虚なものだと思っていた。少なくともきちんと何かに打ち込んで人に認められる、ということはなかったように思う。
 人に褒められることを、こそばゆいというか危ういことだ、という感覚が自分の中にあると思う。つまり増長するのではないかと。両親もそれを知っていたからわたしにそう振る舞ったのかもしれない。奉られたり共感されることに敏感なのもそれと通じているのかも。なんにせよ、褒められることにわたしは慣れていないし、どうしたらいいのかわからない。
 しかし、書店での印象的な出来事にはそういった感じはあまりなかった。自分の能力の成果を褒められたというか自分の打ち込んでいることを認められているという感覚があったから、少なくともその当時の自分の何かを形成していたとさえ思う。ある種、健全な自尊心というか。なんというかそれが幻想だとしても、社会人としてちょっとだけ認められたとさえ感じていたと思う。お金を媒介にするということだけでなくて、一人の人間として、というか。
 人に褒められる悦びの記憶というのは自分にとってはそのくらいなのだと思う。接客は楽しいし、本も好きだし、書店という空間も一応好きなのだけど、今の自分はいろんな理由から書店で働くことには適わない。自分に合っているかどうかはわからないけれど、それらの記憶がわたしを書店員という仕事に意識を今も向かわせているのだと思う。働く、というとまず書店員が浮かぶ。
 一方、文章を書いてそれによって人に褒められたという感覚は今のところ全くない。それでも文章を書くことは楽しいと思う。今の自分は書くことに打ち込んでいるとは言い難いから、褒められてもたぶん嬉しくはない。自分のために書いているという意識がかなり強いし、人に読まれるとか認められるとか褒められる、ということをほとんど想定していないように思える。
 世界の中の一部としての文章を書く態度として、たぶんそれは最悪なのだと思う。人に読まれることを前提としていないのなら、それは文章とさえいえない。少なくとも建前としてある一部の人にだけでも役に立つかもしれないという意識がないのならば、文章を公表する意味などないのだと思う。
 文章を書くことが楽しいというのはおそらく自分の考えが文字になっていくということが楽しいのだと思う。あるいは書くことによって自分の考えが整理され、思いもよらない発展をしていくことが楽しいのだと思う。客観化することはあっても、そこに他者はいない、たぶん誰ひとり。
 わたしは今のところいますぐにこの世からいなくなっても誰も困らない人間だと思ってる。わたしは社会の中で認められた存在ではないし、認められようと努めてもいないからだ。何かをすることによって自己実現しようとか、社会に認められたいとか、存在したいとか、あるいは単に誰かに褒められたいという気持ちが希薄なのだ。だからそういう態度しか取れないし、それが文章にも現れているのだと思う。
 わたしはどこかで心折れたのかもしれない。おそらくそれは障害によるのだけど、言い訳に過ぎないとも思う。心折れたことよりもそれに対する態度に自分の弱さを見ている。
 人に認められたいということなしに社会と関わるのは迷惑なのではないかと思う。認められたいと思う相手を(漠然と不特定に対してということではなく)具体的に特定の誰かを想定さえできないことはとても不幸だと思う。人と関わろうとしないのだから特定の誰かも具体的にならないのは当たり前のことだけれど、わたしは様々な面で他人にも自分にさえも期待していないのだと思う。
 自分を裏切っていると感じるのは、たぶんそこなのだと思う。引き裂かれている。心のどこかで人に認められたいと思っているのだと思う。もっといえば愛されたいと思っているのだと思う。でも、そうはしない、できない、どこか認めたくない。孤独がつらいとか友達が欲しいという話では全然ない。何かがわたしを堰き止めている。それは障害如何ではない。
 人に認められる悦びをわたしは知っているはずである。だからこそわたしは本に向かっていくのだと思う。しかし自分の中でなにかがズレていて、わたしを遮断している。ネットという希薄さに依存しすぎなのかもしれない。人と関わる悦びは、実人生で人と深く交わることでしか得られないかもしれない。ネットは具体的な人物像をそれほど提示しない。でもたぶん原因はそれだけじゃなくて、根本的に人と相容れないなにかが自分の中にある。薄さ、ということが問題ではなく、根本から拒否している。だから薄くても気にならないのだと思う。人と深く関わることをしない。信じられなくなっている。傷つくのを過剰に恐れている。
 認められるという以前に人と関わるということがない。人と関わるという選択肢が狭すぎる。それはたぶんもっと自由で、様々なバリエーションがあるのではないか。人との関係は、自分だけではけっして決まることではないけれど、視野を自分から狭めることもない。人は思ってるよりもたくさんいて、その一人ひとりに対して自分にとっての関わり方がある。生きている限りそれはその都度あらゆる人に対してずっと続いていく。なにもしていなくても。どんなに関係ない人にも世界中の人に対しても。多くの人に対しては無関心のように装い(それも関係の一つの形だと思う)、ある人たちとは何らかの形で関わっている。
 わたしはわたしなりの価値観で、考え方で、生き様で、人と関わっていける。そしてわたしは適応していくことができる。不自由さを決して言い訳にせず、広い視野を保ち続けることがわたしには必要なのではないか。文章を媒介として、わたしにできることがある。真摯に考え続けることで進んでく。わたしはかろうじて知っているはず、縁というもののなんたるかを。

つぶやこうと思って書いたのだけど、そうはしなかった言葉たち(2月版)

自問字答

人生における諸問題は山積みだけれど、それだってきっとなんとかなるはず。恵まれてる部分を思いつつ、やれることからやってく

考える方法を知りたいのだ。あらゆる知恵から、その発想、考え方を抽出する方法を知りたい

毎日書いた方が、健全だ、という感じはある。あるけど、何を書くかというのはとても大事なのだとも思う

たぶんだけど、潜在的に書きたい、字で表現したい、という人はたくさんいるんだと思う。けれど、それを実際する人は少ないのではないか

この世にあるものの、どれだけのものが、あらかじめ決めて用意周到に作為的に作られたものなのかって。ジブリだって任天堂だって、行き当たりばったりなところは多分にある気がする。
大事なのはその場で反応してくことなんじゃないか。ジャズの即興のように

わたしは何もかもが浅はかだと思う。考えがいつだって甘い。すこしはマシになりたいのだが

パントマイムの練習をしようと思ったこともあったのですが、そのナルシシズムというか人に見られる感じを想像したら耐えられなくてやめました。視線恐怖とかそういうことでなくて、目立ったり注目されるのが苦手。。自意識過剰ですかね

わたしは何事も判断が遅い気がする。。もう少しキビキビ判断するようにしたら、いろいろ変わるかもしれん

説明的なことは書くことはできるような気がするけれど、隠したりあえてわからないようにすることは不得手というかできない。そういう美意識がない。
私の書いたものを読んでわからないところがあるのだとしたら、思考が至らず、説明できていない、表現できていないにすぎない。

好きだとか、愛してるだとか、それだけじゃダメなんだ。気持ちを実態として表現しないことには、それはないのと同じなのだと思う

教室の、端と端で目が逢うみたいに僕らはつぶやいている

どんなニュースでも、自分と少なからず関係があるからニュースしてるわけで。というか日本に生きてる限りは関係ないことはないのだとも思う。だけど目を背けたいというか関係ないと思いたい気持ちもある。→
→どんなことにも教訓を求めようとしてしまう傾向が自分にはある気がするし、それだけで頭一杯になってしまうし、荒むし。

いつまでもしゃべれないふりをしていると、本当にしゃべれなくなるよ

社会の中で人と関わるとかうまくやっていくノウハウというか感覚はたぶん、もうない。それをまた得るには苦労するのだろうなー、と思ってる
それはそういう類の病気だしね。受け入れて、なんとかするしかない

友人からの呼びかけによって、心が開かれるということは、往々にしてあるものだなぁ、と今日は思いましたまる というわけで今度、友達と『ララランド』観に行ってきまぁす

筆談AVのことを知って思うこと

自問字答

 筆談AVというものが在る。出てくる女性が筆談でコミュニケーションするAVであるらしい。わたしはこのAVの本編を見たわけじゃないし、見るつもりもない。つらくて見られないと思う。だからこのAVについて語る資格はないかもしれない。そもそもAVについて詳しくもない。AVについて語るということは自分の性癖とか、何か柔らかいところに触れないといけないことだと思う。そういうことに慣れていないし、積極的にそうしたいとも思わない。何かのレビューのようなものを書こうという気もない。
 ただ一人の緘黙者(の男)として、そういうアダルトヴィデオが存在しているということを、傍観者として思うところはある。
 別にセックスにおいて声を出すことの是非について何か言いたいわけではないし、人の性癖についても他人に迷惑をかけないなら全く興味はない。
 ただ緘黙者がそうでない人と社会の中でどう関わっていくのか、ということには少し興味がある。セックスは人間関係としては特殊というか、ある種振り切っていると思う。特にAVに出演するということになると。ただ自分にはAVに出たい人の気持ちはわからないし、出ることがどういうことなのかも考えない。そもそもこのAVがどこまで演出なのかはわからないことだ。出ている女性は人妻という触れ込みで、しゃべることができない、らしい。ヴィデオの中でのコミュニケーションは筆談をしているようだ。ただそういうAVが在る、ということだ。ということは少なくともそれに関わっている人たちはそこに需要がある、かもしれない、と思ったのだろうと思う。明け透けに言えば興奮する人がいるかもしれない、と。
 これがどんどんエスカレートしていって、AVという幻想を飛び越えて、女性を従わせたい男によって都合よく緘黙の女性が扱われるようなことが起きてしまったらつらいな、とは思う。拒否したり抵抗することは可能かもしれないが、しゃべることで何かを伝えることはできないのだ。SMなどで使われる猿轡にはもしかしたらそういう意図があるのかもしれない(よくわからないで言ってます)。
 おそらく作っている方々もこれは和姦でないと成立しないと思ったのかもしれない(少なくともわたしの見た範囲では和姦に見えた)。だけど人間の欲望はそんなことは簡単に飛び越えてしまうだろうということは想像できてしまう。この種のAVがもし売れたらエスカレートしたものが発売されるかもしれない。しゃべれない人間を征服することは興奮することだ、というようなことが一般的になってしまったら、少し怖い。AVによってどれだけの人にどういう影響が出るのかはわたしにはわからない。全然そんなものないのかもしれない。ただ、緘黙の人が、そうであるというだけで、生きにくい社会になってしまうのなら、嫌だなと思う。ちょっと極端な思考だけど。
 ただでさえ障害は不便である。それはわたしも実感している。何が起きたというわけでもないのに人間不信のようになってしまってるかもしれない(少なくともわたしは)。人間関係の構築はとりわけ難しい。社会の中で生きることは困難かもしれない。しかしだからといって障害によって不当に扱われる筋合いは全然ない。障害者だって人間なのだ。社会の中で、健やかに生きていたい。
 こういうAVが在ることで良いこともあるのかもしれない。緘黙について考える人がいるかもしれない。AVを見て真面目に何か思考しようとか何かを見出そうという人がそんなに多くいるとは全く思えないけれど。
 もしわたしがジャーナリストだったら、このヴィデオを作った人や出演した人に個人的に取材したりしたかもしれない。しかしそんなノウハウも資金もない。かといってこれについての何かを読みたいともあまり思わない。わたしは言いたいことが言えればいいのだと思う。ただ個人的に興味があるというだけである。社会にとっての意義とか危惧とか、そういうことではないかもしれない。この文章は幾分イキすぎた妄想に過ぎない。何かが在る時に起こりそうなことを想像するのが好きなだけなのだ。そして書くことで考えているのだ。
 もしこれ以上このことについて考えていたら、この女性にシンパシーを感じてしまうかもしれない。というか感じつつある。彼女は緘黙(ということになっている)で、そして社会の中で人と関わろうとしている。それは、少なくともわたしにとっては難しいことかもしれない。彼女のその方法の精神性について何か言う気はわたしには全くない。好きにすれば良いと思う。わたしは出演者や作った人を殊更に褒め称えたいわけでもないし、腐したいわけでもない。彼女がAVに出ているということ如何ではなく、そもそもわたしは同じ障害の人間同士で慰めあったり、傷を舐め合うことに敏感である。なるべくそうしたくないと思っている。そうすることで寛解するのならそうするけれど。深入りはしたくない。彼女は人前に出る仕事をしている。魅力的なのかもしれない(わたしには正直わからない)。しかし、しゃべれないということを障害とし、それに対する態度・生き方によってシンパシーを感じてしまうのは違うと思う。複雑なところだけど。障害なんてもろともせず、一人の人間として存在することが、わたしの理想なのだと思う。それが困難なこともわかっている。ただ言えることは同情や哀れみは屈辱である、わたしにとっては、ということだ*1
 どのようにこの社会の中で振る舞うか、どのように生きていくかを考え、そして懸命に実行することはとても有意義なことだと思う。それはわたしが障害を持っているから、というわけではなく。
 人になんと言われようが、わたしはどうしたって生きる。なるべくなら、健やかに幸せに生きたいって思う。わたしはまだまだ足掻いてく。

*1:屈辱だ、というのは大げさだったかもしれない。そこまで強い感情は起こらないかもしれない。ただそう言う表現をする人とは関わらないようにしようとは思うと思う。そういう表現をする人には今の所直接に会ったことはない。愛は地球を救う番組には正直、虫唾が走ってしまうし、なんかそういうことを暗に言いたかったのだと思う

しゃべれないということを、どう捉えているか

自問字答

 端的に言ってしまえば、しゃべれないことを受け入れてしまっていると思う。たぶんわたしは経済的には将来にわたって一人で暮らしていくぶんには困らないと思う。だからと言って、経済社会活動を放棄していいことにはならないし、働かなくてもいいことにはならないとは思う。厳密に言えば、わたしは働いていないとも言えない、とも思うのだけど、そこははっきりさせたくないところというか、今日はどうでもいいことだ。とにかくわたしは慎ましやかに一人で生きていくことに経済的には困らないと思っているのでその点はご心配なく。それは本当に運が良かった、恵まれていることだと思う。その点は開き直っているのだと思う。
 もちろんしゃべれないことによって困ることはたくさんある。ありすぎるのだけど、そのことを見て見ぬ振りをしているし、困ることを可能な限り避けて暮らしていると思う。それでも、ある程度充実して暮らすことはできていると思っている。ある人に言わせるとそれは人間活動ということらしいけど、運動し、筋トレし、料理を作り、瞑想し、音楽を聴き、本を読み、ネットをし、ときどきこうして書く。わたしはたぶん幸せだと思う──一人で暮らすことが幸せか、ということは置いておいて。それはしゃべれないからそういう価値観を獲得していったのか、わたしが本来そういうものを持って育ってきたのかはわからない。一人っ子ということは大きかったと思うし、元々群れるのが好きなたちではなかったと思う。寂しさはそれほどないし、一人でいて性急に困るということでもない。
 今のわたしが目指しているのは、おそらく、いかに社会の役に立つか、ということだと思う。しゃべることが必ずしもそのことに必要だとはそれほど思っていない。確かに不便だし、できることも限られてしまうけれど、できないことはできないのだ。もちろんしゃべろうとする努力は怠るべきではないし、しかし、しゃべれなくても、社会に役に立つことはできるのではないか、とも思ってる──思いたい。それは願望に過ぎないかもしれない。それは安易に、働きたいとか、お金を稼ぎたい、とも違う。わたしは社会によって生かされている。わたしが社会の中に存在しているのなら、社会に何か還元しようと思うのは当然のことだと思う。わたしにできることがあるのなら自分を社会に活かすべきだ。できることを少しずつ広げていくことだと思う。わたしにとって成長するということはそういうことなのだと思う。そういう中でしゃべれるようになればいいと思う。
 何をもって幸せか、ということは難しいことだと思う。わたしは今、幸せだと思うけれど、それは押し込められた、矯正された幸せなのかもしれない。わたしは慎ましやかに一人で生きていくぶんには困らないだろうと書いた。しかし人は経済だけで生きているわけではない。誰かと生きていく、子供を育てる。そもそもわたしは子供がとても好きだし、自分の子供を知ることで自分のことも知れるのではないかと思う。あるいは友人と交流する。師に学ぶ。それのどこに線を引き、達成しようとするかは、難しいことだ。どこまでもできない、あるいはしたくないと決めてしまえば、どこまでも孤独になれる。わたしは人を好きにならないようにしているかもしれない。人を関わることを避けている節がある。それは健全ではないかもしれないけれど、だからと言って人に迷惑をかけるというわけでもない。目を瞑ることは、とても簡単なことだ。
 わたしはそこまで魅力的な人間だろうかと思ってしまってる。他者とどう向き合っていったらいいのか、というのはわたしにとって大きな問題だと思う。人と何かすることがかけがえのないことだ、というのはわかっているつもりだ。だけど。障害がなくても誰にも受け入れられない人間はいる。だからといってそれは不幸せといえるだろうか。
 今のわたしは、音楽があって、本を読み、ときどき人を感じる、それだけで充分に幸せだと思う。求めようと思えば、どこまでも求めることができ、それは緘黙だって簡単に超えていくことかもしれない。
 しゃべらないことは簡単だ。受け入れてしまうことは簡単だ。それでも社会の中でわたしは生きている。そのことはどんなに孤独だろうと、どこまでもついてくることだ。社会の中で幸せを見出すことが、わたしが変わっていくための鍵なのだと思う。それはしゃべれるようになる、ということも含めて。ひいては人と関わること、社会の中でどう生きるのかということを問い続けることだと思う。そう言うことは簡単だが、具体的に行動することはとても勇気がいることだと思う。

ぼくのすうぃんぐたれながし

自問字答

 今日は自分の感じてる音楽について書きたいと思う。それは自分の価値観の表明でもあると思う。
 まず、自分の中の価値観として、かっこつけないのがかっこいいということがあると思う。それは、自分の中のいろいろなところに表出していて、自分の欠点もかっこ悪いところも自発的に言ってしまうし言いたいし、それは、かっこつけないことがかっこいいという価値観があるからだと思う。さらけ出してこそ、と思ってる。どこか崩れた人間の美学というのがあるのかもしれない。かっこいいだけが人間ではないし、情けないところかっこ悪いところも含めて人間なのだ、それこそが美しい、という美意識が自分の中にあるのかもしれない。かっこつけてるかっこよさに辟易してるというか。
 もちろんかっこいいエンターテイメントも好きだし、かっこいいことも好きかもしれない。だけど、人間はそれだけでは不自然だ、と思ってしまう。かっこいいという夢を見させるのが、大衆娯楽に必要なのはわかる。とてもわかる。そういうもんだと思う。
 ジャズマンはしかし、かっこつけない。汚い格好で髪もぼさぼさでヨダレ垂らしながら演奏する人もいる。そこにはエンターテイメントとか商業主義とか大衆娯楽ではできない、ある種のかっこ悪さがあると思う。でも、少なくとも私にとって、その人たちの奏でる音楽は本当に素晴らしいものだ。それだけで十分なのだ、音楽にとっては。奏でられている音楽が、音楽のすべてなのだと思う。音楽にかっこよさは本当に必要なのだろうか。
 彼らはミスをしない。それは演奏技術が長けているからではなくて、ミスも演奏のうち、ミスをミスにしない、ということなのだと思う。かっこつけてる人のミスはイタい。それが致命的になりうることもあるかもしれない。
 音楽を音楽たらしめているのはいつも「歌」なのだと思う。ここでいう「歌」は発声することだけを意味しない。自分の好きな楽器を用いて歌うということ。そこにあるすべての音は、素晴らしい「歌」のためにあるのだ。音楽はメロディであり、ハーモニーであり、リズムである。「歌」はそれらによって成り立っている。
 ジャズの肝は歌っている、ということだと思う。かっこつけることは決して中心にない。かっこつけるのが好きなジャズマンももちろんいるし、いろんな嗜好の人がジャズマンの中にもいると思う。即興で演奏するという性質上その音楽家の嗜好はとてもよくその音楽に反映される。即興で、スウィングに乗せて歌う、それがジャズの醍醐味なのだと思う。ジャズの中ではドラムでさえ歌っていて、バックビートは存在しない。いつだって何かが起きていて、安定という言葉は当てはまらない。その歌を聴いている間は気を抜けず、抜かず、ただただ音楽を楽しんでいる。いま何が起きているか、それだけが楽しみでならない。
 かっこいいエンターテイメントだけが音楽ではないのだ。メディアには全く出ず、そして見た目にはかっこ悪い、そしてその音楽は素晴らしい、という人たちがいる。かっこいい、派手だ、目立つ、そういうものに惹かれるのは当たり前だと思う。しかしエンターテイメント性だけしか知らずに、音楽を聴くのはなんだかもったいないと思う。かっこいいのが全てではない。余計なお世話だろうか。世の中にはたくさんの、素晴らしい音楽がある。わたしは音楽が好きだ。ジャズが好きだ。かっこつけない裏にかっこよさがあるのだ。かっこつけないから、かっこいいのだ。わたしはキメキメも好きだけれど、そういう価値観もあるのです。
 わたしはときどき、文章を書く。作文と音楽はどこか似ているところがあると思う。わたしの文章に、わたしの「歌」はあるだろうか。自問してやまない。

本年も大変お世話になりました。

自問字答

 今年一年は、病気になってから、一番活力があった年だったように思います。友達とFacebookで会話するのを皮切りに、ジブリ美術館に行ったり、ジブリの大博覧会を観に六本木ヒルズまで行ったり。映画観たりと。一人で三鷹まで行けたのはすごく良い経験になったと思います。一人だったら絶対行かなかったと思うもの。こんなわたしを引っ張ってくれて本当にありがとう、という気持ちです。六本木ヒルズもしかり。病気もあって着て行く服がなくて、てんやわんやありましたが、というかそもそもそんなに着るものに頓着はしないのですが、そういうのも含めて良い思い出になってます。ジブリ美術館は本当に楽しかったので、一人暮らしするなら、三鷹だな!と今から決めているくらいです。
 家族とも映画を観に行くのが定着しつつある、というか家族で出かけるなんて映画を観に行くくらいなので、それはそれで楽しかった。映画を観て昼食を摂るというパターンが定着しました。小さい頃からも含めて家族で外食なんてほとんどしなかったので、その頃まで含めて思い出を作り直しているような気分です。
 両親もすっかり歳をとって、余裕があるのが良いと思う。小さい頃はなんだか殺伐としていたように思う。それが良いことだったのかわからないけれど、もう取り戻せることではないし、恨んでいる、ということもない。ただ今をこうして朗らかに過ごせていることが、幸福だと思う。
 10月くらいからジョギングを始めたことが、どういうことにつながっていくのか、自分にはまだわからないけれど、きっと良いことあるさー、と思ってる。その良いことって、きっと目に見えて走ってて良かった、という類のものでなくて、後になって体力があって良かったなー、と思えたら良いな、と思ってます。走ることは日々自信になっていると思う。毎日成長していて、タイムは延びているし、一日の充実感も違う。走ることは限りがないし、それは書くことと似ているかもしれないと思う。
 それから、ツイッターでいろいろと相談に乗ってもらえたことが、わたしはうれしかった。自分の見ているわたしと他人の見ているわたしは絶対に違っていて、それを知覚することはとても楽しいことだと思う。ずっとずっと自分の殻の中に閉じこもっていて、自分で見ることしかしていなかったから、人からの視線、アドヴァイスはとても新鮮でした。ありがとうー。
 今年は毎日続けていたブログと日記をやめてしまったのだけど、日々文章を書くことは続けてて、それはツイッターだったり、パソコンのテキストエディタに殴り書きだったりするのだけど、こうして公開する文章を書くということはやはり楽しいことだなー、と思ってます。噛み締めてる。ブログを書くことで安心してしまっている部分があったから、一度やめてみるのは良かったと思う。でも消してしまったのは余計だったかもしれない。バックアップも一切取らずに消してしまったので、二千くらいあったエントリーはもうどこにも残ってないのです。履歴書を書くのに役に立つだろうと思って始めた『自分年表』とかとっておけばよかったと少し後悔もありますが、まぁいつでも書けますので。。
 今年は人と触れ合うことが多かった分、自分の中に残ってる思い出も多いのです。それはもう全然違います。毎日文章を書いていても年末にこうして一年を振り返る、ということは以前はなかったことだから。きっとここには書いていないことは山のようにあったのだろうけど、少しでも文章として残しておこうという気持ちでこのエントリーを書いています。
 来年の抱負?あまりそういうことを語ることをしてこなかったし、どうせ一月も二十日くらいになればきれいさっぱり忘れてると思うのですが、人とのコミュニケーションをいろんな方法で恐れずに取っていく年にしたいです。そしてその上で、自分の糧となる何かを一日も早く会得したい、という気持ちです。こっちは、(あっちも?)そんなにすぐに結果の出ることではないし、何をするかもわかりませんが、社会との接点を持ち続ける、考え続けることはわたしたちの義務だと思う。その気持ちを忘れないようにしたいですね。